新聞と私

 思い起こせば新聞を読み始めたのは小学生の3、4年くらいからだろうか。ジャイアンツが好きな父の選択で読売新聞を読んでいた。社会人になってからは、会社の寮の食堂で朝食を食べながら朝日新聞をのんびり読むのが日課だった。残念なことにエンジニアの同期では新聞をじっくり読む人は少ないように見えた。新聞を読む私のペースは朝の慌しい雰囲気の中で極端に遅く、同じテーブルに座る人が3回転くらいしてからおもむろに出勤していた。
 家を持った今も朝早めに起きて新聞を読んでから出勤するペースはそれほど変わらない。妻のペースを乱さないように気を遣う必要がある程度の違いだ。
 新聞の良いところは、自分が興味がある内容については記者の視点でアレンジされた情報を入手でき、また、なにより普段の自分が興味を持たないであろう情報に出会える機会を持てることだと思う。
 若手のエンジニアや学生に新聞を読まない理由を聞くと、ネットやテレビで十分情報が入手できるからと応える。また、社会のニュースに関心が低い傾向は私の世代にも共通している。ネットは確かに素晴らしい。多くの情報を瞬時に得ることができる。ただし、自分の興味がある情報を見出しだけでひろっていくだけでは、自分の感性や思考は広がっていかないのではと思う。
 社会のあらゆることは、単純に白黒がつかないことが多く、それを理解して判断していくことは、エンジニアに限らず何より重要だと思うのだが、わかりやすくアレンジされたテレビ番組のせいなのか、そもそも異なる意見があることについていけない人が多いように思う。原発の問題にしても、有事になると、ヒステリックな一方的な批判が起きたりする。
 朝日にしても読売にしても、当然、記者の視点が入るので記事にはバイアスがかかっているのだが、例えば朝日の特集では原発に賛成と反対の意見を同時に載せることで多面性を保つ努力をしている。賛成派の元議員が「低レベルの放射線が体に良い」という意見をこの状況で主張するのには少し驚いたが、エネルギーの問題が単純ではないことは世界中の人が知っている話だ。今日の朝日の記事でも脱原発に動き始めたドイツがフランスの原発で作った電気に依存していることなどが書いてある。そして、新聞の良いところは、ある事件の後を追ってくれるような記事があることだ。テレビのニュースは一過性でインパクトがある良い画像がとれないと紹介されない。しかし、劇的な事件や事故の被害者は画像にするにはインパクトがあまりにないその後の人生が続くことになる。新聞はたまにそのような記事をとりあげることがあり、当事者が考えることを知ることができる貴重な機会になる。
 先日、遅ればせながら朝日新聞のデジタル版が始まった。(私はまだ持っていないが、)スマートフォンで読むには便利だろう。新聞配達の人が毎朝届けてくれる紙メディアもあと10年もすれば主流ではなくなるかもしれない。紙メディアが衰退するのは時代の流れで、電子メディアには検索ができ、動画も使えるという重要な利点があるので、肯定的にとらえているが、多面性があり、物事を深堀りするメディアはぜひ残ってほしいと思う。ビジネスモデルも変わるのかもしれないけれど、今の新聞購読料程度だったら払いますよ (^_^)